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名古屋高等裁判所金沢支部 昭和31年(う)360号 判決 1957年3月12日

控訴人 被告人 広島孝信

検察官 須賀武雄

主文

原判決を破棄する。

本件公訴を棄却する。

理由

弁護人谷口成高の控訴趣意は昭和三十一年十一月十四日付控訴趣意書並に昭和三十二年二月五日付控訴趣意補充申立書記載の通りであるから、此処にこれを引用する。

記録に依れば原判決は挙示の証拠を綜合し、「被告人は昭和三十一年三月頃から日本航空羽田空港副操縦士萩原秀美なる偽名で、富山市、金沢市等にあるカフエー、バー等に出入していたものであるが、偶々同年四月三十日頃富山市常盤町カフエー新世界に於て、女給八田おゆきと雑談中同女に対し、現在右日本航空に於てエアガールを募集中であるから、志望者があれば推薦して貰い度い等と申向け、同人からその知人である小田スミ子(当十六年)が適任で、或は志望するかも知れない旨聞知するや、スミ子をエアガールに推薦する旨甘言を以て誘惑し、温泉地に連れ出してこれを姦淫しようと企て、同年五月一日同女を被告人の宿泊先である同市桜町三十八番地旅館北越館に呼び寄せ、予て偽造しておいたDC六B、シチーオブナラ副操縦士萩原秀美なる名刺を渡し、恰も自分が日本航空株式会社の副操縦士であるように装つて「あなたを日航のエアガールに世話して上げたい。試験は七、八月頃と思う。一度考えてみてくれ。」と申向け、同女をして被告人が日本航空株式会社の副操縦士で真にエアガールに世話するため呼び寄せたものと誤信させた上、さらに翌二日再び同女を同所に呼び寄せて、推薦するについての打合わせ等に事寄せて、言葉巧みに誘い出し、同日午後二時四十分頃富山駅発上り列車に乗車させ、同日夕刻石川県江沼郡片山津町六百五十二番地よしのや旅館に連行して宿泊させ、もつて姦淫の目的で同女を誘拐したものである。」旨の事実を認定し、刑法第二百二十五条、第五十六条、第五十九条、第五十七条等を適用し、被告人を懲役一年に処する旨言渡したものであることを認め得る。ところで、被告人の前記の所為は、姦淫の目的で人を誘拐したものとして、刑法第二百二十五条に該当し、なお同法第二百二十九条本文に依り、告訴を待つて論ずべき罪とされていることは、敢て此処に説明する迄もなく、また司法警察員作成昭和三十一年五月六日付告訴調書(記録第一六丁以下)の記載に依れば、被拐取者小田スミ子は同日被害事実を捜査官憲に申告し、併せて犯人の処罰方を要求したことを認めるに足るから、本件起訴は適法であつて、本訴は公訴提起に際し、所謂訴訟条件を欠いていたものではない。(原審証拠調の結果に徴すれば、右告訴は小田スミ子の自由意思に基いたものであり、強制その他の方法に依り、その真意に反して為されたものでないことを看取するに足る。)しかるに記録中編綴の富山県東礪波郡庄川町斎藤平治作成の戸籍謄本(記録第四一六丁)の記載に依れば、前記小田スミ子は本件公訴(昭和三十一年五月二十一日受理)提起後、被告人と婚姻し、昭和三十一年九月十二日富山県東礪波郡庄川町長宛其の旨の届出を為し、右届出は同日受理されたことが明かであり、他方刑法第二百二十九条但書は「但被拐取者又ハ被売者犯人ト婚姻ヲ為シタルトキハ婚姻ノ無効又ハ取消ノ裁判確定ノ後ニ非レハ告訴ノ効ナシ」と規定して居るから、前記の婚姻は、さきに為された告訴の効力に対し、如何なる影響を及ぼすかを、此処に審案する必要が生ずる。原判決は刑事訴訟法第二百三十七条第一項の趣旨を本件の場合にも類推し、被告人と小田スミ子の結婚が、公訴提起後に成立したことを理由とし、同人等の婚姻は、さきに為された告訴の効力を左右するものでなく、従つて本件公訴は適法であると言い、被告人に対し有罪の宣告をしている。思うに所謂拐取罪に付て、刑法第二百二十七条第二項が被拐取者収受罪から婚姻目的のものを除外していること及同法第二百二十九条但書が特に告訴権の行使に婚姻の存否を条件としていること等から見て、刑法は営利拐取、国外移送拐取の如き特殊の場合を除いては婚姻を第一次的に保護尊重し、苟も刑事訴追によつてその破綻を招くが如きことを極力避けようとする趣旨が十分に窺われるのでありこれに従えば、婚姻成立の時期が公訴提起の前であると後であるとに依つて、婚姻に対する保護尊重に、差等を設けなければならぬ根拠を見出し難く、これに反して、刑事訴訟法第二百三十七条は、告訴権の軽卒な行使に依り、公訴の追行が不当に左右されることを防止しようとする趣旨の規定であつて、必ずしも本件の場合に適切な規定でないと解されるから、これ等各法条の趣旨を綜合すれば、本件に於けるが如く、被拐取者が犯人と婚姻した場合には、該婚姻の成立が、公訴提起の前であると否とを問わず、いやしくも婚姻の無効又は取消の裁判が確定した後に為されたものでない限り、当該犯罪に対する告訴はすべて無効であり、既に為された告訴の効力は、悉く消滅に帰するものと解するのが相当である。そうして見れば本件公訴を適法と認め、被告人の所為に対し有罪の認定を下した原判決は、法令の解釈適用を誤つたものであり、その誤りは判決に影響するから論旨は理由があり、原判決は破棄を免れない。

よつて刑事訴訟法第三百九十七条第三百八十条に依り原判決を破棄した上、同法第四百条但書に従い次の通り判決する。

本件公訴事実は叙上原審認定事実と同旨であり、刑法第二百二十九条本文に依り、告訴を待つてこれを論ずべきであるところ論旨に対する判示部分に引用した戸籍謄本の記載に依れば、被告人は昭和三十一年九月十二日被拐取者である広島スミ子(旧姓小田)と婚姻したことを認め得べく、従つて被告人の本件犯行に対するさきの小田スミ子の告訴(昭和三十一年五月六日付司法警察員作成の告訴調書に依るもの)は刑法第二百二十九条但書に依り、その効力を喪失したものと解さざるを得ず、その結果、本件公訴は訴訟条件を欠如するに至つたと認めざるを得ないから、刑事訴訟法第四百四条第三百三十八条第四号に従い公訴棄却の言渡を為すべきものとする。

よつて主文の通り判決する。

(裁判長判事 高城運七 判事 沢田哲夫 判事 木村直行)

弁護人谷口成高の控訴趣意

原判決は事実の認定を誤りたる違法の判決である。

起訴事実の内容は、被告人は小田スミ子を温泉地へ連れ出して姦淫する目的で、萩原秀美なる偽名を用い日本航空株式会社の副操縦士なりと偽り、スミ子をエアーガールに世話すると申し告げ、同人を信用せしめ片山津温泉よしの屋旅館へ連行して誘拐したものである、と謂ふにあり。

(一) 然れども姦淫の目的で連行したものではない。

被告人は第一回公判期日に於て、姦淫の目的で連行したのではなく、二人が面白く遊ぶ積りで金沢方面に行くことに同意を得たものであると述べて居る。最も検察官に対する供述調書によれば、その連行は姦淫の目的であつたかの如く見られなくもないが、それは小田スミ子の調書を前にして、お前が名を偽りスミ子をエアガールにしてやると言葉巧みに誘拐して関係したと詰められ、姦淫の目的で連れ出したと言はれても致し方がないではないかと畳みかけられ、その誘導尋問のまま調書に現はれたもので、相手方を惑はし、その意思に反して連れ出したものではなく、又姦淫した事実は認めるが、それは相手方の合意の上であり、強制の事実がない、尤も一緒に旅行して、相手方が誘いに応ずるならば、との希望的な気持があつて、宿泊したことは之れを認めるが、相手方の反抗を抑圧して迄目的を達せんとするの意思はなかつたものである。相手方に於ても、その供述によれば、帰る汽車がなくなりその一日を、ボーイフレンドとして、映画その他遠く一日帰りに、温泉地へ行つて遊んで来ようとのスリルを味いたい気持が多分にあつて同行したもので、むしろ被告人の誘いを期待したかの如き感がある。中学校しか出ていないスミ子が、羽田空港のエアガールになれるとは考も及ばぬ事は百も承知である。それかあらぬか、自らはエアガールとしてその資格がない、自分としては地方鉄道をやめたくない、エアガールにならうとは思はないとはつきり公判廷に於て述べて居る。従つて欺されて同行したものとは言い得ない。金沢を過ぎ、動橋駅で下車し、片山津温泉の広告塔が見え自動車で片山津温泉よしの屋旅館に入つても、顔色一つ変えず、同旅館の女中の証言の如く、「最初部屋に入つてすぐ「お泊りですね」と言つた処、二人共「はい」と答えたこと、二人が新婚の夫婦と見えた、互に話し合つていたと言うことや、私は「奥さんですね、仲がよいね」と言つた処、「仲よくせにやいかんね」と言つて二人共笑つていました、との証言によるも、二人が夫婦気取りで同宿したことも肯ける。その翌日も二人がボートに乗り、帰りの汽車中にても話し合で高岡で別れるに際し小使銭まで貰つて帰つた事実等考へる時どこに誘拐されたと見るべき点があろうか。

(二) スミ子を被告人が誘惑、欺罔して行を共にしたのではなく、又相手方が其意思に反して連行されたのではない。

小田スミ子が真に欺かれたと覚つたならば、已に金沢より引返すことが出来たものである。エアガールになる意思がないものに何が故に随行して行く必要があろうか。又よしの屋旅館に入ることを欲しなかつたら、これも帰ることが容易であり、又同宿を拒まんとするならば、番頭なり、女中なりに意を含めて、被告人の知らぬ間に、保護を求め、被告人の実力支配内より脱することは、又可能であつたのである。然るに、スミ子は、何等その手を逃れんともせず、却つて、二人でピンポンに、ボートに歓楽に耽り、その宿泊したことをむしろ感謝するものの如く、而かも一等の部屋代二人七千円を奢つて貰つて、恬然として恥じない女性を思うとき、これが現代の女性なるかな。何れが誘拐したかを疑はざるを得ない。世の多くの男性が、映画に、アベツクに女性を誘い、手を握り、外に公園に、内に旅館に連れ込み遊び、喋々喃々するが如きは、総て之れ誘拐なりと謂わねばならぬ。之れ決して法の精神ではない。誘拐罪の成立は尠くとも、相手方の意思を強制又は錯誤に陥らしめて、その自由をも拘束して、その実力支配内に移し、その支配より脱すること困難なる状態に置くことを必要とすると信ずる。本件の如く、互に体をも許して、小使銭を貰い、宿料を払わしめ、享楽的に一夜を過した両名に対しては、誘拐罪を以て律することは、誘拐罪として法律の解釈を誤り、事実の認定をも誤りたる違法の判決であると謂わねばならない。

(三) 告訴調書は、告訴人の真意に非ず、且その告訴の取消を阻害されたるにより、無効である。

小田スミ子の本件告訴は、両親の手前娘として、「自から進んで被告人と行を共にした」とは言へず、誘拐された如く申し向けたため、ついに告訴せざるを得なくなつたもので、右告訴は、小田スミ子の真意に副わないもので、無効であると共に、告訴後起訴前に小田スミ子が、警察署に於て、被告人に会つて、その真意を糺し、場合により告訴の意思を飜さんとし、被告人亦相手方及その両親に会つて、真意を訴えんと、面会を要請した処、警察官により、その面会を阻止され、遂に告訴取消の機会を失わしめられたものである。

(イ) 小田スミ子が、自から進んで被告人と行を共にしたこと、と見るべきは、原審に於ける弁護人の弁論の要旨につき提出したる書面を、総て援用する。

(ロ) 最初強姦罪として取調べられ、ために、医師の診断書迄提出を警察にて強要され、その診断書は、直接大沢野警察が医師より取寄せたもので、相手方及その両親はその診断書の内容を知らない。従つて、調書はそれに吻合するかの如く作成されて、小田スミ子の真意と相当隔離されて、被告人より強制されたが如くなつて居るが、それは被告人を陥れんとし、強姦罪にて処分せんとした無理な調書であつて、後日検察官により訂正されたことによつても、その調書は、全面的に信を措くことが出来ないことは明瞭であつて、その調書は、スミ子の真意に非ざる無効のものである。

次に、告訴の取消が、大沢野警察官に依て阻止されたことについて、

小田スミ子の、第二回目の証人尋問に於て、初め、警察で被告人を処罰して欲しいと言つたが、気持が変つた、両親に対し、被告人が警察に勾留中、会つて来てくれ、と言つた、検察官に対し、被告人を処罰して貰いたい、と言つたのは、その時私の気持がはつきり定まつて居なかつたからです、被告人の気持が分からず、その取調を受けた前に、両親が被告人に会つて居れば、処罰して貰いたいと言はなかつたかも知れない、と述べている。その他、小田キヨ及小田健次も同様被告人に会わせてくれと警察で言つたこと及びそう悪くない男だつたら、告訴を取下げようと思うて、話して見た上で、警察の人に告訴を取下げることを頼まうと思うていました、と述べ、若し被告人に会わせてくれたら、告訴が取消されて居たものである。然るに、警察では徒らに強姦致傷罪の嫌疑に捉われ、被告人に対する告訴取消の機会を与へず、小田スミ子及その両親の要請を容れなかつたことは違法である。又、被告人自らも小田スミ子の両親が大沢野警察署を訪れ被告人に面会を求めて居ることの事実を知り、自から会つてスミ子との関係につき真意を申述べ、誘拐に非ざることを弁明せんとしたが、警察官の拒否する処となり、遂に果し得なかつた、若し面会して居れば、両親が理解して疑が解消し、告訴が取消さるべきに至るに拘らず、これなくして起訴に至つたものである。

要するに、親告罪は可成く起訴前にその告訴を維持すべきや、充分当事者の自由を尊重し、その機会を与へしむべきに拘らず、その機会を閉し、告訴の取消を為さしめなかつたことは、被告人並に相手方の基本的人権を侵害した憲法違反があり右告訴調書は、この点に於ても無効である。次に、本件事案が、仮りに誘拐罪が成立したとしても、公訴提起後、拐取者と被拐取者小田スミ子が、昭和三十一年九月十二日正式に婚姻したから、此の場合は、刑法第二二九条但書を適用し、右婚姻により、前記告訴は、その効力を失うに至つたから、本件は刑事訴訟法第三三八条第四号に該当し、公訴を棄却すべきものであるから、公訴棄却を求める。との主張に対し、原判決は尚その主張を排斥されたり、右は法条の解釈を誤り、同法並に刑事訴訟法第二三五条第二項及同法第二三七条の告訴取消の規定と告訴の無効と混同して解釈を誤りたる違法がある。

その理由はつぎの如くである。

一、反対説の最大の論拠となるものは、刑事訴訟法上、起訴後には告訴を取り消すことができない旨の規定(刑訴第二三七条)があるということであろう。この規定の存するところから本条(刑訴第二二九条但書を指す。以下同じ)にいわゆる「告訴の効なし」なる文言についても、これと同様に解し、告訴の効を失わしむべき婚姻は、起訴前に為されたものでなければならない、と主張するものであると察せられる。約言すれば、この説は本条にいうところの「告訴ノ効ナシ」は、告訴取消と同様に評価せらるべきものとの前提に立つている。傾聴すべき点がないとはいえないが、両者が同様に評価せらるべきだとするのは独断である。告訴の取消が起訴後に許されないからといつて「告訴ノ効ナシ」との規定の適用までも起訴によつて排除せられるものとすることは、独断である。両者の質的相違があきらかにされれば、反対説の根拠は崩潰し去るものである。次にその相違を指摘する。

二、告訴の取消は、もつぱら一旦具備された訴追要件を欠くに至らしめる効果を有するものである。これに対し「告訴ノ効ナシ」とは、一旦生じた告訴がその効力を失うということばかりでなく、告訴をしても効力が初から生じないということを示す文言であるから、前者が相対的であるに対し、後者は絶対的である。従つて両者を同日に談ずることはできない。起訴後に告訴の取消を不能ならしめた立法の趣旨は次の如くである。告訴もその取消も私人の権利である。従つて告訴がすでに行われて、一旦訴追要件が具わり、国家の公権による公訴が提起された後に至つて、再び私人の力によつて、その公訴の運命を左右するような告訴の取消を許すのは、永く法律関係を不安定に置くこととなつて、好ましくないとの理由により、現行法では、一旦起訴があつた以上、以後告訴の取消を許さないこととしたのである。これは公訴よりも告訴取消権を著しく軽く見る立場によつて立法されたものというべきである。しかし、旧刑事訴訟法では「第二審ノ判決アル迄之ヲ取消スコトヲ得」(同法第二六七条)と規定されていたのでもわかるように、告訴取消権の行使をもつと重く見、起訴後にも及ぼすという立法方式も十分考え得るところである。現行法はたまたま告訴取消権の方を此較的軽く見たから、起訴後にその行使を許さないように立法しただけのことで、もし親告罪における被害者の立場をもつと重く評価するのを可とするならば、むしろ旧刑事訴訟法の上記の規定の方をまさつたものといわなければならない。いまこの両立法方式の優劣を論ずる要はないが、このように二つの立法方式が可能であることを先づ念頭に置いて考うべきことを強調しなければならない、要するに、告訴の取消についてさえ、起訴後はこれを許さずとすることは、ただ現行法上明規されていることであつて、本質的にそう規定しなければ矛盾をきたすというような性質のものではない。そこで、「告訴ノ効ナシ」ということについては、すでに述べた如く、それが告訴の取消とは性質を異にし、もつと絶対的な意味を持つているのであるから、起訴により特にその規定の適用を排除するだけの明文がない以上は、むしろ「告訴ノ効ナシ」、は起訴の前後を問わず、絶対的な意味で告訴を無効とする意味を有するものと見るのを正当とする。

本条についていえば、刑法は「婚姻」というものを非常に重視したものというべきである。告訴とその取消とはまさに対等の重みのあることであるけれども、「告訴ノ効ナシ」とはその法文の表現自体において端的に示されているように、将来告訴することを不能にするばかりでなく、過去の告訴をも無効ならしめ、訴追の要件を欠くに至らしめることを意味するものである。以上は形式上の理由である。

三、眼を転じて、実質的に見るならば、弁論要旨にも指摘せられている如く、婚姻した者を本罪により罰するのは、全く無意義である。それが刑事政策上好ましくないことであることはいうまでもない。立法者もこれを罰することが無意味だと思えばこそ、婚姻が成立した以上は、原則として(唯一の例外は婚姻無効または取消の裁判が確定した場合だけである)告訴を無効とし訴追を不能ならしめているのである。従つて婚姻成立が起訴の後であるというようなことを理由として、婚姻の事実を無視して、強いて罰することに何の意義があるであろうか。そのやうなことが法の精神でないことは明白である。「告訴ノ効ナシ」との強い表現がなされているのも、告訴およびそれに伴う起訴よりも、はるかに犯人と被拐取者との婚姻の事実を重大視したものであり、また左様に重大視することに実質上合理的な意義がある。「告訴ノ効ナシ」とは告訴の取消という私人の形式的な意思表示を俟つまでもなく、婚姻なる事実の発生があれば、その自動的効果として当然に処罰すべきでないとの立法精神を示すものである。(婚姻は私人が行うものであるから、私人の行為により間接に公訴の運命を支配することにはなるが、それは婚姻という事実発生の効果であつて、告訴の取消のように私人の処分行為の効果ではないから、性質を異にする。)

四、本件のような犯罪について、いかに婚姻ということが告訴を無効にし、訴追権の行使に重大な制約を加えるものであるかを示すのは、本条にいわゆる「告訴ノ効ナシ」の例外が、同条所定の如く、婚姻の無効または取消の「裁判確定」の場合に限られていることである。このことを裏からいえば、無効又は取消の原因のない婚姻が一旦成立したものであるならば、後に協議上の離婚をしようとも、また配偶者の一方が死のうとも、告訴権を復活せしめることはないということがあきらかである。これは法文の反面解釈上明瞭であるばかりでなく、同旨の論旨が文献上にも示されている。(ドイツでは通説といつてよい。Manrach Deutsches Strafrecht. Besonderes Teil 1952.S.100. 大場茂馬、刑法各論、大正二年六版三二〇頁、また泉二新熊、刑法各論が曽て同説であつたことは、右大場氏の引用に示されているのであるが。小生の手もとにある四二版六二九頁は一切の婚姻解消の場合に類推して告訴の効ありとの説を採つている。しかし、後説は法の明文に特記してあるのを無視するもので小生は賛成しない。)

五、ドイツ刑法第二三八条につき、次のような解釈の存することも、訴追との関係において、婚姻の事実が如何に重視されているかを認める上に参考となるであろう。

(参考)ドイツ刑法第二三八条の法文「誘拐者が被誘拐者と婚姻したときは、婚姻が無効と宣言されたのでなければ、訴追は行はれない」この解釈として「有罪判決言渡前まで、婚姻が続いた場合には、告訴は効力を有しない」との意味だとされている(Manrach,前掲書同上頁)。ばかりでなく、「共同正犯によつて犯行がなされたときは、共同者の一人が右婚姻をすれば、共同者中の他の者についても訴追はできない」(教唆犯、従犯についても、正犯が婚姻すれば、訴追不能となる)とも認められている(Qlshausen Kommentar. 3d II 1927.s,1083. Leipyiger Kommentan N. 2. Milter Maier Vergeleichen de Darste llung Besonderes Teil Bd, IV, 215, Schwary N.I, Lifzt, Lehrbuch, 381, )そこで、婚姻の事実の発生により、自動的に、何等告訴取消等の手続を要せずして、「告訴ノ効ナシ」となる旨本条に規定されているのは、婚姻を重視し、起訴の効力にまさるものであることを示す趣旨と解せられる。それだけの強い自動的効力がないならば、本条の規定はほとんど存在理由がなくなつてしまう。もし、告訴取消と同じ程度の意味しかないならば、本条を置かなくても、告訴取消権を行使せしめることによつて、ほぼその目的は達せられるからである。本条の存在理由は、まさに婚姻なる事実の発生により、本罪処罰の実質的意味が失われるから、被拐取者のなんらの意思表示を俟つことなく、告訴を無効とし、すでになされた公訴をも棄却せしめることにより、その実質的に妥当な結果を得せしめようとするにある。

(参考)刑法が戦後改正される前には、その第一八三条第二項に、姦通罪に関する規定として「前項ノ罪ハ本夫ノ告訴ヲ待テ之ヲ論ス但本夫姦通ヲ縦容シタルトキハ告訴ノ効ナシ」とあり、この末尾の一句は同法第二二九条の末尾の一句と同一であるので、この点に関する学説、判例ならびに字義を調査してみると、次の通りである。

一、「告訴ノ効ナシ」の意義について、目下の問題の解決に直接役立つものはないが、もし、「縦容」(小生も従来は漠然と、正当なのかも知れないが、刑法学者の論証は足りない。「事前に奨勧する意」と思つて来たが、辞書等により追究してみると、この漫然たる思想に疑問を持つに至つた。)が姦通の前にあつた場合ばかりでなく、姦通の後にあつた場合にも「告訴ノ効ナシ」ということにあるとするならば、事後の縦容によつても、告訴の効力の失われるにつれて、公訴もまた棄却されるべきことになる。そうして、その理論は、全く同文をもつて成る刑法第二二九条の場合にも、推し及ぼすことができる。

二、旧刑事訴訟法のもとにおいては、告訴の取消は「第二審ノ判決アル迄」これを行うことができるものとなつていた(旧刑訴第二六七条第一項)ので、現行法とは、その制限時期に相違がある。従つて告訴取消に関する刑事訴訟法上の制限をもつて、ただちに「告訴ノ効ナシ」にあてはまるものとすれば、新法時と旧法時とでは別問題になるが、前に述べたように両者は同一でないとの前提に立てば、次のように論ずることができる。右両者はその文言を異にするように、実質も相違することは、すでに論証した通りであり、法文の規定にも両者を同一視すべき根拠は一つも存在しない。準用規定のないことはいうまでもない。従つて、両者を同視することはできない。両者を同視することは(多分検察官の意見であろう)独断である。右両者を同視しないかぎり、「告訴ノ効ナシ」については、改正前の刑法第一八三条の解釈に関する次の理論は、現在第二二九条の解釈に推し及ぼすことができる。

三、「縦容」の語義について調査すると、「従容」と同義。中国の古典では「従容」のみ存し「縦容」はない。もつとも「従」と「縦」とは通じて用いられるから、刑法法典の用例も許される。「従」はしたがう、ゆるやか、ほしいままなどの意、「容」はいれる、ゆるすなどの意、(以上は大体中国及び日本のどの漢字辞典にも出ている)。「従容」と熟語になつた場合には、中国の最も信頼すべき熟語辞典である、「聯緜字典」によると、十種の辞義が出ているが、そのうち、刑法の解釈問題に関係のあるものは、次の三つである。(1)  謂休燕也進退挙動不生常 (2)  謂承意也 (史記儒林伝)に出ている。(3)  謂奨勧也 (史記衡山王伝)に出ている。このうち(1) は「従容として死に就く」などの用法として日本人一般によく知れている。(2) は事前事後を問はず、意を承けるの意のようにうけ取れるが、この点なお研究を要する。(3) は事前にしか用いられない。結局(2) の意味があるとすれば「縦容」は語義として事後の意味にも用い得ることあきらかである。殊に一字一字の意味からいえば、事前事後を問わず用い得るように思う。(事前の場合にしか用いられぬかも知れないとの疑念なきにあらず)。もし、そうであるとすれば次のようにいうことができる。ちなみに「従容」と「慫慂」とは同義(中国の「辞海」による)この点日本において区別している慣用とは違う。日本の慣用は本来の用法に反する。

四、「縦容」の意義については、刑法学書中、(1)  事前の承諾に限ると説くもの(小野、刑法講義(各論)一三六頁)(2)  姦通後の許容を含むものと説くもの(神原甚三・神谷健夫 刑法詳論五版八四一頁には「姦通後に於ける姦通」の一句あり、事後許容を含ましめる意明白である)とある。つまり、両説あることになるが、いずれも論拠を示していない。判例として(大正一五年三月一九日大審院判決、判例集五巻一〇四頁)は「縦容」は当然事前の許容のみの意と解しているらしいが、その前提に立つて次の趣旨と論じている。民法第八一四条第二項によれば、夫の宥恕(殖松注事後許容)あるときは、離婚の訴を提起できなくなるのに、他面、刑事上なお妻の非行を糺弾できると解するとすれば、「法制ノ統一ヲ破リ不当ノ結果ヲ来スノミナラズ、夫カ妻ノ姦通ヲ縦容シタルトキハ告訴ノ効ナキモノトシタル刑法第百八十三条及姦通罪ニ於ケル告訴ハ婚姻関係ノ不存続又ハ其存続ヲ失ハシムヘキ事ヲ以テ之カ有効条件ト為シタル刑事訴訟法第二百六十四条ノ法意トヲ対照シ審究スレハ夫カ妻ノ姦通ヲ宥恕シタルトキハ刑法第百八十三条ノ罪ニ付イテハ本夫ノ告訴権ハ其宥恕ト同時ニ当然消滅ニ帰スヘク従テ夫カ妻ノ姦通ヲ宥恕シタル後姦通罪ニ付キ為シタル告訴ハ其効ナキモノト論定スル事最モ事理ニ適シ立法ノ精神ニ合シタル正当ノ解釈ト為ササルヘカラス」と。要するに、立法の精神上このように解すべしというので、小生の上記論じて来たところとは異なるが、前述の第二二九条の立法精神論の部とは一致するので、あるいは弁論上利用価値があるかと思う。(起訴時期との関係はこの判例では問題になつていない。)

五、姦通罪につき「本夫……縦容シタルトキハ告訴ノ効ナシ」なる邦文に相当する規定は独仏その他の諸国にその例を見ない従つて比較論はできない。

刑法第二二九条に関し、婚姻は公訴提起より重ぜらるべきであることの理由。

(追加)フランス刑法第三五七条第一項には「拐取者(ravisseur)が拐取された娘(la fille qu′il a enlever)と婚姻した場合には、民法により婚姻の無効宣言を請求する権利を有する者の訴によるほか訴追されることがない。また、婚姻の無効が宣言された後でなければ、有罪とされることはない。」 と規定している。これによつて見れば、フランス法では、たとえ起訴されてからでも、婚姻無効の宣告がないかぎり有罪とされないことは明瞭であつて、婚姻関係の存在するかぎりは、それを尊重して、有罪を宣し得ないことになつている。この点からわが刑法第二二九条の規定を解するにも、フランス法の精神を他山の石として考慮すべきである。そう解するときは、婚姻しても、その婚姻が起訴後なるのゆえをもつて、有罪を宣告すべしとする論は出て来ない。これを有罪とすることが、同条立法の本旨に反することは、右フランスの照応規定に比較して明白である。

(参考)姦通罪の規定にある縦容について

(一) 多数説は「事前に奨める意味」としているが、前掲神谷、神原両氏のほか、島田武夫(各論初版一五八頁)は事前事後を問わずとし、岡田朝太郎(刑法各論31頁)と滝川幸辰(各論初版八〇頁)は事後のものをも、「縦容」と認めているが、それは「告訴権の放棄」であると見ている。思うに、「告訴ノ効ナシ」とある以上、告訴権の放棄と見ても見なくても、右少数説はいずれも事後の許容をもつて告訴の効は失われるものとしているのである。告訴権の放棄という説明は巧でない。刑法第二二九条の場合の「告訴ノ効ナシ」の説明に役立なく、従つて、統一ある説明とならないからである。第二二九条の方は「婚姻」の事実発生によつて、告訴の効なきに至るのであるから、告訴権の放棄と見るにはあまりに事実が違いすぎる。そこには縦容の場合のように意思表示又は観念の通知に相当すべき行為がないからである。

(二) 文字論について、東洋史の権威で金石学に詳しい石田幹之助教授に意見をきいてみたところ、「『従容』(縦容に同じ)はむしろ事後にゆるす意の方が強いと思う聯緜辞典に出典用例が十分出ていなくても、その意味なしといえない。」とのこと。さきに推測を以て記した如く、辞典に出ているのは偶然的要素が多分にあると見るのが正しい見方らしい。従つて、辞典になくとも、別意を文字そのものから論定することは許される由。加うるに、有力な意見と思われるのは、明治四十年公布当時の文字の使い方からすれば、事前に「すすめる」意味だけの意をあらわすには、恐らく「慫慂」の方を用いたであろうに、「縦容」をわざと使つたところを見ると、「ゆるし容れる」趣旨であり、従つて事後の許容をも含むと見たいと同教授がいつていたことである。「すすめる」意のときは「慫慂」の方を用いるだろうということは、日本人の慣用からいつてもつともらしい想像であると思う。明治大正以来われわれの学んで来たことが端的にそれを示している。いうまでもなく、姦通罪の規定につき右の如く解せられるに於ては「告訴ノ効ナシ」は非常に強い意味で、事前事後に及び得るものであり、刑訴上の時期の制限よりも強い効果を有するものであると論定し得る。

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